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エベレストへの長い道(続) [旅]

4/22
今日も晴天である。日が昇る頃には気温も上がり、七時の朝食で体も温まった。グループIはもう一泊するが。私たちは八時に下山開始する。雪面をロープで下り、スラブ岩もロープで下る。急坂のクラックを下るとき、エイト環が岩に食い込み伸びきったロープが持てない。上から下ってきたシェルパがここ、ここ、と脚の置き場を指示してくれる。エイコさんは懸垂下降が未だ怖いんです。下方に昨日出発したテントが見える。昨日の登りの雪面での息苦しさは嘘のようである。中間キャンプにデポしておいたトレッキングシューズに履き替えると何と軽く容易に歩けることか。登ってきた道がベースキャンプまで見渡せるので歩きやすい。一昨日、中国人グループのチュンさんが疲労で伸びて休んでいた岩が重なっているところも難所ではなかった。カルカに入って苔むした道はもう桜草が紫色の可憐な花を咲かせていた。
キャンプに着くとグループⅡの人たちが賑やかに中国語で話している。隣のテントのチュンさんが抱きかかえるように私を出迎えてくれた。下りで膝を痛めたようで、足を引きずるように歩き、全治まで4、5日かかりそうだと悲しげな顔をした。モニカさんに貰ったハイドロクロライドの薬は効きすぎてずっと音沙汰がない。夜中に一度も目覚めなかった。
4/23
四時半エイドリアンガイドが「ブレックファースト」と各テントの前で叫んでいる。五時過ぎには中国人らのグループがチュンさんを残して出発した。中国人グループはエベレストの南側と北側から登って登頂日には頂上で出会うという壮大な計画を立てている。カメラマンのチュンさんは残念そうである。明日みんなが戻ってくるまでレストである。
倉岡さんと私は八時半にエベレストベースキャンプへ出発である。二人の荷物はポーターが担ぐ。60キロの荷物を一人で一回二千ルピー30ドル。今回はもう一度戻ってきて同量を担ぐという。同じ道をたどってベースキャンプに五日ぶりに戻る。晴れ、風もない。ゆっくり歩いて13時着。中国人教授とルーマニア人のドリンさんが出迎えてくれる。朝のうちに献立をお願いしてあったので昼食は倉岡さんがシェルパの主食ダルバート、私にはチャーハンがでた。久しぶりの米飯である。
ジーンという雑誌の編集者二人がテントに来ていてラッセル氏にインタビューしていた。18年前に奥様のお父さんがなくなったのでニュージーランドからシャモニに移った。幼い頃はラッセル氏のお父さんと川に魚を取りに行ったり狩猟をしたりして楽しかったなどと身振り手振りで話していた。
40代前後のヘルムートさん、ジェンさん、アンドレさんが15時半過ぎに戻ってきた。ロブチェイースト頂上から降りてきたグループIの一番乗りである。65歳のジョーさんは16時40分着であった。老若の差はそのまま体力の差であることが歴然としている。
ニュージーランド人のウッディガイドは四時間半でベースキャンプから頂上まで登り、エベレストに登った回数も五回でガイド仲間では一番の実力者である。
倉岡さんはアルコールが好きである。フェリチェのシェルパの家で何杯もチャンをご馳走になったという。今日もキャンプに着いてからポッドで缶ビール片手にメールをチェックしていた。それに引き換え日本の公募隊では富士山の高さを超えるとアルコールはご法度である。
六時半、いつもと同じ時間に夕食である。パスタとカリフラワー。デザートはパイナップル入りパイ。4500ルピーでカトマンズでラッセル氏が買ってきたクリーマーを試用した。倉岡氏がクリーマーを使ったらクリームがあっちの方に噴出して飛んでいった。キッチンボーイに「ヒロに使い方を教えてあげて」とラッセル氏は冗談を言いテーブルクロスに飛んだクリームも「あとで洗うからそのままに」と上機嫌である。
中国人グループは明日ベースキャンプに戻ってくる予定なので大声で話す人もおらず、食堂テントには体格の大きい欧米人の山男ばかりで、話題も至って高尚のようでユーモアを交えて談笑していた。それにしても50年以上英語に接してきた筈の私は半分ぐらいしか話を理解できない。倉岡さんがいなかったらツンボさじきに置かれてしまう。グループIのジョー、ヘルムート、ウッディ、ジェンさんらは、ロブチェの頂上テントでガブリエルさんが音楽を鳴らしながら大声で何を語っていたかを面白そうに話していたが、傍にいない人を話の種にするのは万国共通のようだ。
六千メートルの高所で気をつけるのを忘れて夜中、手袋をしないままテントのチャックの開閉をして両手の手指の爪を変色させてしまった。左手には水ぶくれまで作ってしまった。結構ズキンズキンと痛い。痛いのはルーマニアのドリンさんの場合は深刻でロブチェにも行けずエベレストベースキャンプでスティだった。ベースキャンプの診療所にも行ったらしいが、椎間板ヘルニアで歩くと痛いという。
4/24
今日から三日間は休息日である。夜中三時頃、シェルパ達がキャンプ3の設営に上がっていった。昨日と一昨日は風が強くて上がれなかったらしい。今日も風はあったが九時過ぎには戻ってきた。我々の登る時間に比較して驚異的である。
昨日、私のスカルパの高所靴がカトマンズから届いた。なかなか登頂できないのは高所靴が重過ぎるから、と毎回新しく売り出された靴を穿いてみる。今回もアイガー4000に加温器を付けてみようと考えていたが、エイドリアンさんに足を無くす恐れがあると言われてしまった。倉岡さんに差し上げたつもりの靴をわざわざ取り寄せてくれたので助かった。ラッセル氏がカトマンズからベースキャンプまで三日間で荷物が届いた話をしていたときは自分の事と思わなかったのは迂闊であった。
ロブチェイーストに登る速度が遅かったのは強力な下痢止めを飲んで体調を崩した所為にしてしまったが、ラッセル氏が作成した昨年の頂上までの各ガイドの速度、距離と時間のグラフ、過去十年間の登頂率等を見ると、日本の公募隊と比較して格段に優れているとも言えない。登頂は体調、天候がよければ大丈夫とは思うが。
今朝は晴れ、テントの上にシュラフを広げて日光浴をさせた。隣のテントのアンドレさんはテントの外に出て奥様にだろうか、携帯電話をかけていた。アンドレさんはフランス人であるが、優しい声で電話に話しかけていた。
朝食のときにみたハイメックスの70%の登頂率のデータで気分的に落ち込んだが、メールをチェックして気分は快復した。ロブチェに行っている間に八通もきていた。笹本さんはマイペースでね、野口さんは頑張ってね、市川さんも河野さんも励ましの言葉で、みのりさんは草津に家族で自転車で行って中一の和君が一番早かった、秀君は国家試験に合格、事務所からは順調ですから心配しないで、と今回は皆さん真面目にエールを送ってくれた。
倉岡さんは立派な望遠レンズつきの大型デジタルカメラを持っていて絶えず被写体を探している。重量もあり、ハイビジョンビデオも撮影できる。ロブチェイースト登頂の写真を見せてもらったが、ビデオ画面も雪面の登りからエベレストに近づけ、次に雪面に戻って登山者に焦点を合わせる。なかなかの腕前である。ポッドには珍しくラッセル氏が寝入っていた。大鼾をかいている。氏は頂上までのロープの設営費用として本来のベースキャンプまで一グループ二百ドルの集金に今日も行ってきた。25グループで240人の登山者がいるという。結構支払いを渋るグループがいて集金も大変らしい。日本の公募隊の中にも過去に支払わず帰国してしまったグループがあったという。オマーンから来たナビさんは、上着にまたスポンサーの名前のワッペンを縫い付けている。一社10万円くらいだという。ナビさんは毎日通信社に電話して報告する義務を負っている。猫なで声で話しているから彼女に電話をしているのかと聞いたところ、違うよ、仕事だよ、と答えた。中国人グループは官公庁の後援である。彼らも上着に大きくワッペンを貼っている。
ポッドの本棚にあったニューヨークタイムスのベストセラー「ザ・クライミング」を半分ほど読む。1996年のエベレスト登頂の話である。女性が一人、標高7000mまでしか経験がないのに、無酸素で登りたいと言い出す。どのように思いとどませるか、興味がある。七大陸最高峰を無酸素で登ることをスローガンに日本のテレビ局にエベレスト登頂の企画を持ち込んだ登山家がいるが、七大陸最高峰のうち無酸素で登れないのはエベレストだけである。エベレストに無酸素で登頂できた登山家は少ない。2007年のチョモランマ登頂でも一人でシェルパもつけずに無酸素で登っていた日本人は、キャンプ2のテントで数日たって発見されたときにはこと切れていた。発見した人も日本人であったが、彼は登頂のチャンスを振ってまで連絡に走っていた。そういう事態を目の当たりにして、そのとき初めて私はエベレストの怖さを知ったのである。
ロブチェの高所順応から戻ってきたクリスチーナさん、スチュワートさんとガブリエルさんが加わり夕食は賑やかだった。ヘルムートさんが「昨夜は静かだったが、今夕はガブリエルがいるから騒々しいと、誰かが言っていたよ」と言う。スチュワートさんとガブリエルさんはハイな状態で騒々しい。高所に行くといつもより高揚する気分になることがあるが、この二人は一緒になると大騒ぎするので大変な騒音源となる。
4/25(日)
歯を磨いて、オイルを顔に塗っておしぼりでふき取り、HAKUを塗りUV乳液を塗り、終わり。HAKUの効果はいかがでしょうか。帰国後が楽しみである。相変わらず真っ黒ですね、と言われるかしら。
雲ひとつない朝である。今朝もキャンプ3とキャンプ2のテント、ロープの設営にシェルパたちは出かけた。二回ほど雪崩があり、幸い怪我人は出なかった、とラッセル氏が報告した。毎年、ベースキャンプからキャンプ1へのルートで犠牲者が出る。いつ起こるか分からない雪崩に、そこを通過する人たちはラッシアンルーレットと呼ぶ。
昼食に、昨夜の夕食と同じポテトのおやきが出た。どこの国の主食なのか、あまり美味しいものではない。離乳食のような味である。隣に座ったルーマニア人のドリさんが昨夜、「診療所のドイツ人の医師がヘルニアではないと言ったので、明日モニカとドクターと三者協議をする」と話していたので、聞いてみた。ノーグッド、と肩をすくめていた。歩くと脚から腰にかけて痛みがあるようだ。カトマンズか帰国か。カトマンズには良い医者はいないよ、と誰かが言うと、ドリさんは急に元気がなくなった。
夕食は、木製の柄のついたナイフとフォークが食卓に並んだ。ワ-オ、ステーキだ。ライスと緑野菜とポテトフライと骨付チキンである。ほぼ全員が赤ワインを飲んだ。私はエダムチーズを分厚く切って頂いた。アルコールが入ると席は賑やかである。ラッセル氏が七大陸の話をして隣に座ったクリスチーナさんの気を引く。彼女は七大陸完結が目標である。デザートはリキュール入りのケーキである。夜中に頭が痛くて目覚めた。山男はアルコールに強いというが、私は山男にも山女にもなれない。夜空を見上げようと、テントの外に出るにはテント出入口のチャックを開閉しなければならない。手袋をはめなければ左右の人差し指の水膨れが痛い。凍傷にかかったようである。
4/26
六時、トイレに行くとキッチンボーイが丁度手洗いにお湯を入れていた。「どうも」「どうも」日本語は便利である。ゴミの回収をしていたお兄ちゃんにも「どうも」「どうも」、ベースキャンプの共通語になったようだ。
昨日、中国人のガイドと五人のクライアントのトレッカー達がベースキャンプに到着した。ガイドは早速、倉岡氏に仕事の売り込みの話である。倉岡氏は七大陸を二回行ったと言うのが売りである。
午後、KK氏が、赤と黄色の縞々の帽子を被って男女二人の若者を連れてポッドにやってきた。中に入るや驚きの声。豪華な虎の絨毯を敷き、バーがあって、隅にはメールを送るパソコンがあって、ハイビジョンのテレビ、ゆったりしたソファと机、そして何よりも彼らの目を引いたのが、レーシングカーのゲームをしている人たちである。登山とは全く別天地の世界である。倉岡さんにラッセル氏を呼んでもらい、KK氏と若い女性は対談を始める。その様子を若い男性が写真撮影をする。ピークスという山の雑誌の取材である。若いカメラマンの背中には焼け焦げた跡がある。撮影中に後ろに下がりすぎ、ストーブでジャンパーを焦がしたそうだ。穴があいて「寒いです」と言っていた。KK氏は北海道の利尻岳に登って雪面をチェックしているときに踏み外し四百メートル滑落したそうだ。その足でネパールにやってきて、明日はゴラクシェプから六人のクライアントをカラパタールに案内するという。不死身である。昨日はK隊のヤクとKK隊のヤクが一列になってベースキャンプに向かっていると、別の日本人の隊が後ろから「そんなに長いヤクの列は他の登山者の迷惑になるから考えてくれ」と大声でどなっていたという。KK氏は「ヤクに聞いてくれ」と言いたかった、と愉快そうに話す。KK氏は歌って踊れる数少ない貴重なガイドだ、と倉岡氏の評である。ハイメックス隊には日本人は二人だけであるが、ベースキャンプには日本人の登山者が大勢集まってきたようだ。
夕食は中国グループの女性たちが料理した北京ダックである。夕食後はポッドでパーティが開かれる。私は咳が止まらないので失礼してシュラフにもぐったが、ジンジャーの黄色い声の歌声、シェルパたちの歌声と足を踏み鳴らす音、午前三時過ぎには大きな音でドラムつきの音楽が私の眠りを妨げた。
4/27
中国隊が早朝に高所順応に出かけた。シュラフから顔を出したかったが眠くて叶わなかった。
朝食後、ラッセル氏が身振り手振り声色まで変えてアナザーストーリーを、と次から次にキャンプ1から3の出来事を話すので皆、席を立てない。固定ロープに身をかがめるようにして立っている男性がいた。片方の手袋がなくなって二日前に戻って来なかった男である。レスキュー隊が下ろしたが、お礼は電池二個だけだった。他にも話はあるよ、となかなか話は止まらなかった。本に書いてあったよ、とヘルムートさんが言うと、あれはドラマで本当は違うよ、と話し始める。
食後、テントの外に出てみると、プモリに続くエベレスト側の稜線の北側から霧が降りてきている。ノースコルは風が強いよ、48時間は変わらないよ、とラッセル氏が教えてくれた。今日も明日もレストである。食堂に常置してあるエダムチーズが美味しくてつまみ食いをしてしまう。お腹の調子は朝一番が少し心配であるが、そこを乗り越えると一日何とか過ごせる。
昼近くに、ロブチェに登る五人とアマダブラムに登る一人を連れて女性ガイドのKさんがポッドにやってきた。雪面だけで四百メートルロープを必要とすること、明るくなる四時半くらいから歩き出せばよいでしょうなどと、倉岡さんが助言していた。
夕食までポッドに座っていた。昼過ぎから雲が次から次へと湧き出ているのが窓越しに見える。ストーブがつき暖かくBGMもいい曲が流れている。外は周りの山がかくれて白い世界である。
一昨日、ヘリが飛んできてルーマニアのドリさんとオマーンのナビさんをカトマンズに運んでいった。オマーンのナビさんは服に十社以上のスポンサーの名前を縫い付けていたが、どう説明するのだろう。ナビさんは、ロブチェからの下りで足首を挫いて力持ちの小さい体格のポーターに負ぶさって下ってきたという。本人は大変な負傷だと言っていたが、カトマンズで診てもらったところ捻挫らしいということだった。
ヘリ一機が飛ぶと百万円ということであるが、帰りは鮭の燻製を運んできた。
夕食はガブリエルさんが本職の腕を振るったご馳走がでてきた。六年間シャモニでシェフ修業をしていたということで、鮭のホイル焼きを料理してくれた。日本のマグロのさしみの三倍はある量で、ジャガイモなどのつけ合わせと野菜サラダが出た。舌鼓をうち賑やかな夕食だった。チョコレートケーキのデザート。倉岡さんの助けもあって、三個残っていた一個に手を挙げると、エイコがエイコがと皆さん大喜びしてくれた。
エイドリアンさんがマーラというアメリカ人を夕食に招待していた。良く話をする女性で30台なかば、顔が小さく座高が低いので小さく見えたが、百六十二センチ前後はあるという。マナスルで二回、倉岡さんと登っているそうだ。今回はフリーで無酸素でエベレストに登る予定だという。成功すればアメリカ人女性の初の快挙である。
4/28
朝食時に倉岡さんと高所談義をする。昨夜の続きで、マーラさんは日本人女性から見れば大柄であるが、向こうの人から見れば小柄である。それでもマナスルのときは20キロ以上のザックを背負っていた。昨年はエベレストに二メートル近い大きな体格の男性が参加した。来る前に筋肉トレーニングをしてきたと自慢していたが、山登りは筋肉で登るものではない、できるだけ余分な体重を減らす方がよい、案の定、途中でリタイヤした。エイドリアンのように細いほうが良い結果を出す、今年も何人か体格の良いものがいるが、わからない、と言う。ロブチェで一番早く登っていたものも、六千と八千では違うこともある、あの速度で登れるとはかぎらない、とは倉岡説である。
スカルパ八千の重い靴を穿いてフラフラ歩いていたら、倉岡さんに「あんまり意味ないよ、筋肉強化ならば別だけど」と笑われてしまった。昨日も食堂をフラついていると、ガブリエルさんに「ドリンキングか」と言われてしまった。それにしても皆さんジョークが瞬時に出るのでうらやましい。日本男性にはこのようなスマートな人はなかなかいない。
九時半、モニカさんの検診の時間である。診察室のテントまで走って行ったが、血圧は百六十と百、血中酸素濃度は80、脈拍は90と高めである。再測定を命じられた。
昼食はピッツァである。一人分ずつ大皿の大きさである。タケノコやオリーブの実や、野菜の酢の物が別皿にある。デザートはスイカ、昨日のヘリで到着したようだ。ラッセル氏は食後、いつものように雄弁になる。ジョニイ氏と話しているが、話を理解していないのは私のほかにドイツ人のヘルムートさん、オランダ人のクリスチーナさんである。理解しようと一生懸命に聞き耳を立てるが、さっぱり分からない。オーストラリアやニュージーランドの英語は難しい。
倉岡さんが明日からの高所順応の準備をしてくれる。ハーネスにつけるロープをしっかりテープで止めてくれた。予定はキャンプ1に一泊、キャンプ2に三泊、キャンプ3に一泊、キャンプ2に一泊、そして5月5日にベースキャンプに戻ってくる。午後11時に食堂の前に集まる、と言われていたのだが、11時半過ぎていますよーと、テントの前で起こされたときには飛び上がった。いつの間にか熟睡していたのだ。
4/29
眠気と戦いながら夜中12時すぎに出てアイスフォールの一番上で夜が明けた。一昨年よりも平らな道が多いように感じた。ハイメックスのテント群はキャンプ1の一番奥にあった。テントが出来るまで先に着いていたガブリエルさんとスチーナさんのテントにおじゃましてラーメンをご馳走になる。テントに三人入ると狭く二人は寝転がっていなければならない。スチーナさんが甲斐甲斐しく料理してくれた。
小のトイレは登山道から少しだけ離れていたが、そこまで行くのには距離がある。配布された大の袋は良くできていた。何よりも大きいので安心して広げられる。高度順応の出来ているジンジャーとヘルムートとジェーンさんらがエイドリアンさんと共にキャンプ2まで登って行ったが、大多数はキャンプ1までである。
倉岡さん料理の夕食のチリコンカルネと食後のココアを頂いてモニカさんに貰った下痢止めを飲んだ。夜中グルグルお腹がなるので外出したが頭の中が回っているようで白い雪の上に全部吐いてしまった。こんなことは始めての経験である。翌朝もココア色のものを吐いてしまった。
4/30
キャンプ2へ出発する準備をしているときに急に催してしまい、テントの中で大騒ぎした。朝食もスープだけにしたが、腹痛で力が入らない。朝早く出て行った中国人グループの教授とファンさんがテント場に戻ってきた。もう1日休息するという。私は、すみません、ごめんなさい、と終日シュラフに潜っていた。食事の時間になると倉岡さんが一人でお湯を沸かして食事していた。
5/1
上るのも下がるのも今日しかない、と朝5時に準備を始めたが腹痛のため一時間出発を遅らせてもらう。高所用羽毛服を着ていてもなかなか体が温まらない。酸素は80台なので順応が出来ていないわけではない。クレバスをハシゴで渡り、はしごを上下したりして行くが、昼近くなるとバランスが悪くなり体が揺れるので一歩一歩が緊張のし通しだった。倉岡さんはポーターやシェルパに「ポーターみたいだ」と言われるほど、ザックの両横や上下にナルゲンやマットやピッケル、ヘルメットや高所用ダウンなどを括り付けて重そうである。すみません。途中でシェルパが酸素ボンベを届けてくれた。今から酸素ボンベでは登頂はおろかキャンプ2まで行き着くのだろうか。
20くらい酸素を出して歩く。苦しくはないが、ストックを持った四本足の男性らに追い抜かれる。キャンプ2がこんなに遠いとは思わなかった。
キャンプ2には既に百近くのテントが並んでいた。テント群の入口は二箇所あり、一箇所は小さい岩山の入口にあり、奥の入口はそこから約一時間歩く。ハイメックスのテント群はキャンプ2の奥から二番目であった。トイレテントもキッチンテントも食堂テントもある。夕暮れ前のローツェフェースも頂上も一望できる。稜線もはっきり見え、頂上近くは急にゆるい稜線となり、酸素の薄いことを考えなければ非常に容易に見える。登りたい。しかしベースキャンプであんなにあった食欲もゼロである。夕食は取らずにシュラフに潜った。夜中、外に出てみる。白銀の世界に黄色が多いテント群は、遅い時刻になるとテントのロープに付けた銀白色のテープがヘッドランプの光で蛍光色に輝いている。
5/2
カメラマンのハイさんは元気である。いつもニコニコ、エイコさん、と、さん付けで話しかけてくる。ヴィクターの中型ビデオカメラをマイクをはずして三脚に立てて撮影に余念がない。ローツェフェースの氷がキラキラ輝いている。倉岡カメラマンも今日は三百枚撮影した、と元気である。それに引き換え、今回は、私はビデオ撮影を諦めて登頂に専念することになっていたが、この体たらくである。腹痛を引きずり朝も昼も夜も食事の内容が何だったのか覚えていない。たぶん数口食べただけだと思う。胃袋が受け付けてくれない。夕方には疲労困憊、酸素濃度も上がらない。もう一日ここに留まっていても同じか。夜中、風と雪だった。不思議なことに夜中にはピタリと止んだ。
5/3
四時にシェルパのウェイクアップコールで目覚める。五時まで音もなく装備の準備そして食事。シャリーさんとファンさんと私を除いて、エイドリアンガイドの声に従い隊列を組んでキャンプ3へ出発する。ハイさんは出発風景を撮影できたのだろうか。エイコ/ヒロ隊はシェルパ一人が最後尾で倉岡さんを先頭に皆とは逆方向に、新雪に付けられた数人の足跡をたどりキャンプ1に向かう。そこまでは五箇所ばかり簡単なハシゴが架けられているだけで急坂もない。キャンプ1のテント群を過ぎて最初のクレバスは大きい。50段近くの長さのハシゴを下りそして上る。往きは何とも思わなかったハシゴも空腹のためか延々と遠く感じる。酸素マスクは弁もゴム製で確実に空気の出入りを確保してくれる。フラフラしていたのか、集中力を欠いた一瞬に、ロープが左右にゆれて顔面が氷に当たりプラスチックのマスクが割れてしまった。ベースキャンプに近いところだったので下からシェルパが新しいものを届けてくれた。頂上近くだったらこんなに簡単にはいかなかったであろう。
アイスフォールの中間地点でクライアント一人と上ってくるK氏に出会ったが、数時間後に、途中まで上がってきたK氏らが下ってきた。二人は同じように細くて背が高い。ビリーさんやモニカさんもそうだが、筋肉が最小限ついていて尻の肉はなく、体重もなさそうである。クライアントはK氏よりも4、5歳若そうである。ベースキャンプのテント群が見えてから、クランポンの脱着地点までの距離が遠く感じたのは始めてであった。体力の限界か、弱気になったのも今回が初めてである。倉岡さんが言うには、歩行六時間を過ぎると歩みが極端に遅くなる。酸素を吸ってはいるが、キャンプ2から二時間は普通だった。往きもアイスフォールを上っている間は少しは追い抜かれたが、男性だから無理もない、と思っていたが、アイスフォールを抜けて広いクレバスをハシゴで上り下りする辺りから遅くなり、テント群が見えた後は極端に遅くなったと言う。寒さによる腹痛対策も充分でなかった。せっかく持参した腹巻も未使用に終わった。次の計画が頭に浮かばない。
ハイメックスのキャンプ入口でラッセル氏とすれ違う。「何が食べたい?何が飲みたい?」「タトパニ!」。最高齢で(ハイメックスの今までの最高齢登頂者は柳澤氏の70歳である)女性であるというハンディがあるにも関わらず、隊員応募には60歳までの年齢制限があるが、参加に快諾してくれた倉岡氏の好意には何を持って報いることができるか。ヒロさん、がっかりしたであろう。急に寒さを感じたのか、「寒い、寒い」と後ろでつぶやいている。今の倉岡さんとかけて何と解く、とにかくヤクになりたい、そのココロは? あの全身を纏う長い毛が欲しい、私は小声で言う。
5/4
昨夜の夕食は何だったかも思い出せない。一回だけトイレで目覚め、湯を飲んだだけである。留守番をしていたチョンさんが朝食のおかゆをよそってくれた。食パンにのった卵焼きもいつもの通りである。ダウンを全部テントの外に放り出して日光浴をさせた。
九時にモニカさんのオフィスでラッセル氏のもっともな提案があった。ロブチェイーストのときも今回もそうだが、快復が遅すぎる。高所順応が出来ている割には快復機能が落ちている、とモニカさんは言う。ラッセル氏も今回は天候その他を考慮すると5月15日が登頂の最後のチャンスである、それまでにどれだけ次の機会をうかがえるか、エイコの場合は短すぎる、公募隊として現在まで無事故を誇ってきたハイメックスは死者を出すような危険は冒したくない、そして下山と決定した場合は一日でも体のために早く下山したほうが良い、と言う。倉岡氏からもルクラまで同行してもよい、と有難い申し出がある。しかし倉岡氏には大きなカメラを持って頂上まで行ってもらいたい。
ポッドに遊びにきたK氏から「残念だったね」とねぎらいの言葉を貰って、そして倉岡氏がキッチンに声をかけて用意してくれた熱いシャワーを浴びながら、明後日にも山を下ろうと決心した。たぶん、例年のように一ヶ月間は脳も高所で酸素不足にやられて、見当はずれの行動をしながらも八月ごろまでにはビデオ作品をまとめることができるだろう。
中国人のファンさんは生徒二人が昨日ベースキャンプにきたというので嬉しそうである。モニカさんが、シャリーさんが下ってきた日の昼食の様子を再現してくれた。ひとくち食べてあちら向いて溜息、またひとくち食べてあちら向いて深いため息。彼女はまだ30歳、私の半分以下の年齢だ。だんだん力がついてくる年齢である。夕食のとき下りるかどうか聞いてみた。再挑戦する、という。参加費も両親に支払ってもらったから簡単には帰れないそうだ。ビリーさんがしきりに慰めていた。
ビリーさんのイタリヤ人の友人がポッドにやってきた。モニカさんはスペイン人、ビリーさんはドイツ人、三人三様、母国語ではなく英語で多弁である。姦しい早口の話題には全く歯がたたない。
5/5
下山の荷物を作らなければならないのだが、シュラフの中でいつまでもグズグズしていた。おしぼりもミルクティも来て漸く八時までに一個完成した。朝食は倉岡さんとシャリーさんだけで寂しかったが、若いシャリーさんを相手に倉岡さんが羊の肉の違いから、山からの帰りに港で食べた貝や魚の美味しかったことなどを、語るときの身振り手振りは、本当に日本人かと疑うようだった。昼までに二個のバッグと背負っていくザックの中身を詰め終えた。
キャンプに一番先に戻ってきたのはオランダ人のジェンさん、ローツェフェースを普通七時間くらいかかるところを五時間で上ったという。39歳、一番油に乗った年代である。次から次へと全員元気に戻ってきたが、ザックをテントの前に放るとそのまま転がり込むようにテントに入り、昼食に出てきたのはジェンさんとスチーナさんとアンドレさんだけである。フライドポテトとソーセージと卵と、ウドン。日本食は初めてである。朝からファンさんは咳は止まったが喉の調子が悪そうである。
今朝早く頂上までロープが届いた。天候待ちだったのが、漸くサウスコルを越えてすべて完了した。あとは天候の状況を見極めて登頂開始である。北側のノースコルで雪崩があり、ブルガリア人が亡くなった。南側の頂上からサウスコルまでの間に二体のボディがあり、上るときは暗いので見えないが下るときは目に入ってしまうようだ。34歳のエイドリアンガイドと二人のシェルパでロープを頂上に上げたそうだ。エイドリアンガイドは働き盛り、今一番元気だ。今夜はキャンプ2に泊まる。
5/6
目覚めると、腹痛の再発である。
朝食後、エイドリアンガイドがシェルパたちを引き連れて帰ってきた。凱旋帰還である。大勢に祝福される。今期の登頂の一番乗りである。
ポッドの前でハイさんが音頭をとって全員の写真を撮影した。私を真ん中に立つ。抱擁と握手、カメラの列に見送られてハイメックスのキャンプを出た。今日で仕事を終えたポーターのニマが私のバッグを竹かごに入れて担いだ。私の軽いザックはシェルパのロブサンが自分のザックに入れて背負い、九時半にゆっくりと下山を始めた。また戻って来られるだろうか。あまり青空はないが陽射しが弱く、歩くのには好都合である。別れの余韻に浸りながら歩く。ロブチェのテント場はまだあった。麺スープとコカコーラを戴きフェリチェまでの荒野をひたすらロブサンの後ろを追い午後4時にヒマラヤンロッジに着いた。
5/7
夜中と朝二回、大変だった。夜中はストッパ一錠、朝はモニカさんに貰った薬を二錠服用する。七時に出発する。朝もやの中、家々の屋根にはうっすらと雪が積もっていたのが融けて雨だれとなって落ちている。
三人で出発したのだが、下り道はどうにかなるが、上りにかかると心臓が割れ鐘のようになる。私の歩みがあまりにも遅いので、途中からロブサンはあちこちロッジに立ち寄りあとから追いかける方式に変わった。途中でテンバシェルパに会う。2007、2009? 二、三回ベースキャンプで会い話もしている。知的な顔は忘れられない顔である。ロールワリンのトレッキングガイドをしているという。
ナムチェとクムジュンの分岐点で先に着いてしまい、橋を渡ると直ぐに後方から声がして、ロブサンが追いついてきたのでクムジュンへの正規の道に戻ることができた。
三時、ロブサンの案内でくねくねと曲がった道を登り彼の家に着いた。二階建ての立派な家である。二階にリビングキッチンがあり、ガラス窓越しに夕日が入り暖かい。17、15、13歳の三人のお子さんがいる。三人ともヒラリーの12年制の学校に通っている。41歳の奥様はロブサンの2歳上の姉さん女房である。目が大きく可愛い顔立ちである。おやつに黄色のボイルドポテトを戴いた。塩をつけるだけでホクホクして美味しい。トイレは外の道路に面して二箇所あったが、水は使わず隅に草や木切れを積んである方式である。ポーターのニマも泊まる。
夕食は奥様が数時間、圧力鍋で炊いたダルスープと、野菜の油いため、ライス。塩味だが始めての味で美味しかった。ニマは家族と同様に唐辛子の塩漬けも食べた。私にはとても辛くて食べられない。家族の様子をビデオカメラで撮影した。
5/8
朝もやの中から浮かび上がったクーンビラとタムセルク、カンテガの白い高い峰群、斜面に建ち並ぶ家々、数十分の幻想的な風景であった。
あんなに頑固に続いていた腹痛も消えて私はナムチェのチェックポストを出るあたりから、次第に緑の多くなる林の間の山道を気持ちよく駆け下りた。ロブサンはナムチェで知人たちを訪問してから追いかける、と言うので、一人で走った。あえぎあえぎ上がってくる観光客やポーターたちを横目に駆け下りるのは気持ちが良かった。もう十年若ければ良かった。エベレストに目を向け始めたのが遅すぎた。悔いや反省をしながらの下りであった。
モンジョを過ぎて下り道で雨が降り出した。古い一軒のロッジに雨宿りした。着物を着たきれいな日本女性のポスターが貼ってあった。男の子がテレビを見ていた。カトマンズでは毎日デモ隊が出てタクシーは一台も走っていないという。マオイストの首相が演説をしていた。
来年も来られるだろうか。自問自答しながら帰国した。

7月10日(土)11時半から内視鏡検診である。帰国して1ヶ月後、井の頭公園のグラウンドで走るようになって火曜日まで距離を10キロ走まで伸ばしてきた。水曜日から流動食に変えたが、運動が功を奏したのか、帰国後も黒便だったのが、黄変した。6月に10日間の間隔で検査して2回とも陽性だったが、明日の結果が楽しみである。


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エベレストへの長い道 [旅]

2010.3.28-6.8

出発は日曜日、準備万端ととのえた。Kがホットケーキ(ネパールのパンケーキ)を焼いてくれたので、朝から満腹になった。トマトとレタスとヨーグルトと、本格的に豆を挽いてドリップしたコーヒーを頂く。前日はミウラで5000mの低酸素室で一晩寝て朝6時すぎ、代々木駅から新橋まで電車を乗り継ぎ、人のまばらな通りを歩きローソンで朝食を買って事務所に着いた。そして夕方6時すぎまで仕事をした。事務所近くのCD店で買ったスーザンボイルの歌を聴きながら残っていた仕事を片付けることができた。5月19日期限の仕事が残っていたが、クライアントが継続を望むかどうか五分五分である。
土曜日は午前中に佐川急便がバッグを2個、取りにきた。夕食はステーキを焼く。日曜日の朝、そわそわして10時すぎには少し早いが家を出ることにする。珍しくKは玄関まで見送ってくれた。久しぶりに晴れである。天気予報では午後から雨が降るという。成田飛行場の第一ターミナルビル南ウイングJで佐々木譲の直木賞受賞作品をオール読物で読みながら時間をつぶす。2時半からのチェックインの列に並んでいるとき笹本夫妻が見送りに見えた。明子さんのご主人は2006年、2007年、2009年のエベレスト出発のときにも見送って下さった。彼女と同じ位の年齢のようだが会うたびに若返っていくようにみえる。
明子さんに会ったのは連休に蓼科山と富士山を一緒にハシゴしたときから6日目である。羊羹をお土産に頂く。包装をほどいてばらばらにして細やかな心遣いである。カウンターの女性に合計42.5キロの荷は重過ぎると言われる。登山靴などを荷から出して40キロ弱。10キロはサービスするが、超過の10キロ料金660ドルを請求される。時間があれば空港から宅急便で送ることもできます、と助言してくれたが、時間がない。支払いがすむとカウンターのお姉さんは「私、今年こそは富士山に登りたい。」と急に多弁になった。山に関心があるようだった。見送りにきた草苅さんからはお餞別を頂く。草苅さんの携帯に妙子さんが電話をかけてきた。「今、山にいるの。ご無事でね」と、エールを送ってきた。タイ航空のバンコック行きの飛行機は20分遅れただけで飛び立った。
夕食のメニューはビーフかフィッシュである。ビーフは吉野家の牛丼の味がした。三時間くらい眠ったところでサンドイッチが出た。現地時間22時にバンコックに到着。空港から出ると七百バーツの出国税を払わなければならない。空港内の三階のホテルに泊まる。八時間で150ドルである。昨年は四階で「ホテル」の文字もあちこちに見られ分かりやすかったが、今年は「ホテル」の案内が見当たらずインフォメーションで教えてもらって漸く見つけた。ファーストクラスとビジネスクラスのラウンジへの案内看板にしたがって長い通路を北に向かい左側に受付ロビーを見つけた。シャワーとツインベッドの広い部屋である。23時過ぎから6時まで熟睡した。朝食はパンと果物、ジュース、コーヒー、水のセルフサービスである。
熟睡したので爽やかに空港のトランジットのチェックインカウンターに向かった。定時に飛行機に搭乗しカトマンズに向かった。隣に座った日本人の60歳くらいの男性は田部井淳子さんが女性として初登頂したときにベースキャンプまで行ったんですよ、と懐かしそうに話かけてきた。今回はネパールに山ですか?と尋ねたところ、いや…と口を濁した。別れ際、幸運を祈りますよ、と言ってくれた。幸先良しである。
飛行場のビザの申請窓口は相変わらず長蛇の列である。それに引き換えビザなしの窓口の列は短い。90日までのビザは百ドルであった。
飛行場出口の前はタクシーと人でごった返していた。ハイメックスの迎えの人を探すのにも苦労するくらいであった。迎えの車は意に反してスプリングが飛び出した古い車であった。ガタガタと揺られてホテルに向かう。自転車やオートバイの二輪車だけでなく乗用車も増えて、車間を横切る群集や犬も多く混雑していた。車窓からの眺めは一昨年よりも大きい騒音と雑多なごみと手持ち無沙汰な男たちで溢れかえっていた。
日本大使館への大通りの途中、見覚えのあるブルーバードデパートから右に曲がり突き当りの大きなホテルの手前、路地を右に曲がりすぐのこぢんまりとした六階建てのチベットホテルに着いた。狭いロビーの奥にはインターネットのパソコンが三台並んでいた。
中庭の食堂でトレッキング組のオーストラリア人夫妻とクライミング組のアメリカ人をラッセル氏に紹介されるが、名前と顔が覚えられない。ラッセル氏はニュージーランド生まれで現在はフランスのシャモニに住む。ハイメックス国際公募隊の主催者で英語に訛のある中年男性である。ハイメックスは1974年からエベレスト、マナスル、チョーユーなどヒマラヤの8000m峰を中心に遠征する一番大きい公募隊である。
今回、ガイドの倉岡さんが私のプライベートガイドとしてエベレストを案内してくれることになった。倉岡さんはエベレスト登頂三回のベテランである。倉岡さんとタクシーでカトマンズの中心タメルに行きレストランでピザと野菜サラダを夕食とする。ピザは土造りのカマで焼いていた。一人四百ルピーである。日本円で五百円位である。倉岡さんとは   10年前に南米のチンボラソに登って以来である。まだ若くもっぱらサラダを皿に山盛りで食べていたことを思い出す。共通の知人をサカナに話題は尽きなかった。
翌朝6時過ぎに起きる。時差が3時間10分で日本時間では9時過ぎになるが、郷に入りては郷に従えで、充分に寝たようだ。ベースキャンプにはハイメックスが用意したシュラフがあるが、途中のロッジには寝具がないところもあるというので、倉岡さんの助言に従い、高所用の2キロもあるシュラフをトレッキング中に使うことにして、不要不急のものはベースキャンプ行きのバッグに移し変えた。このバッグはぴったり30キロ、そしてトレッキングにもって行くものの入っているバッグは18キロ、と倉岡さんは計量していた。
7時半、セルフサービスの朝食。食堂の隅にラッセル氏が一人でボーと座っていた。倉岡さんらは昨夜2時近くまで中庭の食堂で騒いでいたという。アンナプルナIV峰に登るHさんがシャングリラホテルから訪ねてきたらしい。Hさんは1999年アコンカグアのベースキャンプで会ったことがあるが、明るい山男である。この年、同行した京都と青森の友人は2人ともまだ40台の前半で美人だったので、Hさんは自身の公募隊の下山途中に、わざわざテントに寄り道して笑いを振りまいてくれた。
午前中、散歩する。北進して日本大使館よりもむこうの警察学校から右に入り、大きな道路を交差点まで歩く。昨年は滞在中の早朝、ホテルからランニングシューズで街を1周するように走ったが、相変わらず脇道と交差する歩道が一二段低く、上がったり下がったりして凸凹道である。埃っぽく、ごみも多く、呼吸しないようにして歩くのも大変である。建築中の建物も一年たっても殆ど進行していない。Kトレックに寄り道して二年前から預かってもらっていた高所登山靴を受け取る。昨年の夏、八ヶ岳に研修に来ていたAさんを撮影編集したビデオ作品を、シェルパのAさんに手渡してください、と社長にお願いする。中庭に山用品のモンベルの店が建っていた。
もう三年越しで顔なじみになったスーパーで小物の物干しと水を105ルピーで買う。片言の日本語で応対してくれるのが嬉しい。ホテルに戻りペットボトルの水と、機内でもらったスナックで昼食とする。
夕方、Aさんがホテルに訪ねてきた。3ヶ月前に大統領邸の向かいにオフィスを借りたが未だ仕事はない。今春はKトレックの仕事で大阪のKさんが連れてくるクライアントとエベレストに登る。今回Aさんはコックである。山用品のイシイスポーツのKさんが、Aさんは日本食が上手だと言っていたのを思い出した。大阪のKさんは、一昨年、K・Y隊のリーダーでクライアントを二人登頂させた。Aさんは、そのときクライミングシェルパとして一緒に登頂できた。今回、Kさんの隊は韓国隊とイタリヤ隊とグループになって入山料をシェアする。15日後にカトマンズ入りするらしい。静かにポツリポツリと話して帰っていった。
ホテルの五階のバルコニーで五時からレセプションだったが、あいにく雨が降り出し、隣の会議室に移った。トレッキング組、クライミング組全員50名を集めてラッセル氏が予定と高所での心構えを話し、全員の名前を一人一人紹介した。まだまだ若い、ほとんど全員の名前と顔を一致させたことに感嘆する。
立食はパスして倉岡さんと、シャングリラホテル手前の小さなレストランで、フライドチキンと焼きそばとナンを一人400ルピーでいただく。
翌日はカトマンズ出発である。
五時に起きてバッグを廊下に出して倉岡さんに運んでもらう。部屋はダブルに一人で快適に過ごせた。朝食後、六時にバスに乗って国際線の隣の国内線の空港に向かう。あいかわらず待ち時間が長く、漸く8時20分タラエアーでルクラに出発である。操縦席のすぐ後ろで倉岡さんとビデオ、カメラで撮影する。今回はクーンブ山群がよく見えた。
ルクラのナマステロッジで少し休んでパクジンへ出発する。九時過ぎに出てゆっくり山沿いの一本道を歩いて二時近くに着いた。道々、桜や桃の花、桜草の花が満開である。段々畑にはジャガイモの緑や麦の黄色が見える。歩くと汗が出るが休むとひんやりする気温である。昨夜のレセプションでゼリー状の消毒剤、エベレストの地図、帽子、半袖の赤いTシャツ、黒い長袖の厚手の上着が配られたので、早速、赤いTシャツを着てみたがテトロンと木綿の混紡なため、汗がとんでいかない。四時近くにモンジュに着いたときは体が冷え切っていて寒かった。ロッジのストーブにしがみつくようにして温まった。一昨年と同じロッジ、モンジュゲストハウスである。
隊員たちはお互いに未だ慣れていないので遠慮がちに自己紹介している。トイレとシャワー室の隣のツインベッドの部屋は毛布が一枚である。シュラフを持参してよかった。まだ春先、標高も2800mあり、毛布一枚ではこの季節、震える。トイレの横の桜が満開だった。
ナムチェバザールに向けて八時に出発である。国立公園ゲートを過ぎると急坂を下る。年々道が整備され歩きやすくなり、ゲートの建物も黄色を基調として新しくなった。ゆっくり歩くので汗もかかず息切れもしない。上り下りを繰り返して最後の上りにかかったところで、「ラッセルブライスの隊ですか?」と女性が中型のビデオカメラを持ち撮影している。傍らで大きいレンズのカメラをぶらさげ三脚を担いだ青年が倉岡さんに話しかけてきた。日本で二人は講演したことがあるという。私たちの宿泊するロッジで充電ができるだろうか、と何回も確かめていた。時間はかかるが、ネパールでも充電が可能なところが増えてきた。来年、ラッセルブライス隊に参加したいそうだ。著名な方が公募隊に自費で参加するのだろうか。
標高3400mのナムチェバザールに到着する。斜面にしがみつくように三階や四階建ての石造りの白い建物が密集している。細い路地には土産物や登山用具の店が軒を並べている。階段になった道が丘の上まで続く。
宿は窓に赤の縁取りのある四階建てでツインの部屋にはスイッチもあり灯りがつく。昨夜のロッジはトイレだけ灯りがあったが、トイレも男女別で手洗いもある。新しい建物で廊下も部屋も緑色の絨毯が敷き詰められベッドには寝具もあり快適に過ごせそうである。四時からのお茶の時間では倉岡さんが雄弁になっていて、酸素は四リットルで四時間もつ、キャンプ4から頂上まで昨年は一番早い人で五時間半、下りは渋滞で五時間かかったと話している。ミルクティを四杯も飲んだのでひっきりなしにトイレに行く。水洗で汚れていないのが良い。
夕食は野菜とフライドポテトと缶詰の果物と硬くて筋のあるヤクの肉だった。食後、オマーンからきたナビさんはエベレストに登ると国では初登頂になるから、普段はいろいろなスポーツをしていて今回も六社がスポンサーになってくれたと言って、ペタペタと社名の入った複数のワッペンを服に貼りつけていた。
倉岡さんと話しているうちに21歳と17歳のお嬢さんがいることがわかる。九時にベッドに入る。
4/2
六時半起床、七時朝食、朝食後に皆さんは博物館や街への散策に出かけたが私はビゴーが見た職業事情(講談社学術文庫)を読んだり昼寝したりする。
ラッセル氏がカトマンズからヘリコプターでやってきた。さすが主催者はちがう。高所順応はできているのだろうか。
ツナと麺と野菜の昼食。ゆっくりゆっくり一時間半かけてクムジュンへ。途中の飛行場には建材が山積みされていた。街道奥のロッジを建築するためのものであろう。倉岡さんを一人占めしてガイドしてもらう。オマーンのナビ氏とトレッキンググループのオーストラリアの夫妻(彼女の方は太り気味で歩くのが辛そうである)が一番最後からついてくる。クムジュン村の入り口の門をくぐって直ぐにあるタシロッジが今夜の宿である。お茶の後にツインのベッドのある部屋で日向ぼっこをしながら本の続きを読む。明治の職業が多岐にわたって紹介されている。
17時半、日が陰ると部屋も冷えてくる。夕食後、倉岡さんと日本語で話しこむ。隊の共通語は英語である。久しぶりに日本語で話した。
ラッセル隊はベースキャンプに入ってからシェルパらが頂上までフィックスロープを張り、有料の天気予報によって登頂日を決定する。
A隊は三十何日間で遠征ができたと昨年は自慢していたが、ロープ代も天気予報代もシェルパの日当も心配しないで、おんぶに抱っこの隊が多い。
某ガイドはハンテングリに登ったときお客さんを放っておいて先に一人で頂上に登ったが、まだ8000m峰の無酸素登頂を達成できていない。タイトルからも売れないような本を最近出したそうである。
倉岡さんは隊員から「ヒロ」と呼ばれているが、私には「ヒーロー(英雄)」と聞こえる。彼は隊とは年間契約で春のエベレスト、秋のマナスルに登るガイドである。登頂してもボーナスは出ないそうだ。シェルパたちも年間契約であるが大勢を必要とするのはエベレストだけである。登頂するとボーナスが出る。一人五百ドル。
九時過ぎベッドに入るが二時間おきに喉の渇きで目覚める。そのたびに部屋の隣のトイレに行く。廊下もトイレも人が動くと点灯するがトイレで動かないと真っ暗になる。
4/3
六時過ぎ目覚める。今日一日はクムジュンに停滞するので寝袋は広げたままにする。七時朝食。シリアルとミルクと砂糖をかき混ぜてパン二枚とチーズ入り卵焼き。食後、二時間ほど倉岡さんとヒラリー診療所の見学に出かける。X線室、診察室が並んだ平屋の建物である。10人位の医者の集合写真がドアの横に貼ってあり全員シェルパがつく名前であった。男達がカンカンと石切の仕事をしていた。トムラウシの奥庭のような風景で岩陰にコケとアセビが生えている近くの丘を上り下りする。遠くに、クーンビラ、アマダブラム、タムセルクが白く輝いて見える。石畳の歩きやすい道が続く。一巡してクムジュンと3790mの文字が書いてある門をくぐるとクーンブ地方で最長のマニ石の壁に沿って、ヒラリーのハイスクールがある。門をくぐると韓国から寄贈されたコンピュータ室、松本隊から送られた平屋の教室などが建ち並び、広場の真ん中にヒラリー像が立っていた。建物は全部白色の石造りである。今日は土曜日で学校は休みだった。中高生ぐらいの娘さん達が学校の横の水場からロッジまでポリタンで何回も水を運んでいた。ロッジの前では4、5歳の双子の男の子が紙飛行機と手作りの弓矢で遊んでいた。
昼食はチャーハンと人参とキャベツの煮物と缶詰のツナであった。食後、近くのクムジュンゴンバ寺院に全員で出かける。ラッセル氏が二千ルピーを支払うと僧侶が小型の箱を開けイエティの毛に覆われた頭部を皆に見せてくれた。イエティはシェルパ語でヒグマを意味するそうであるが、雪男の頭部として誰が見世物にすることを思いついたのだろうか。
倉岡さんは明大ではYさんの先輩で、新入生のとき山岳部にエベレストに登りたいから入部したい、と言ったら無視されてしまったそうである。明大の山岳部はマッキンリーで消息を絶った植村直己氏が有名である。倉岡さんの高山での体験談を聞かされた。予期しない雪崩に遭い、スキーをつけたザックを千mも流してしまい歩いて下った、その時から雪崩は予測不可能と肝に銘じたそうである。
夕食後、お腹の調子が悪いためモニカさんに薬を貰った。何とかハイドロクロライド、末尾だけはトイレの洗剤と同じ成分である。一回目は二錠、二回目からはトイレに行くたびに一錠ずつ。強力で朝までに治る。
明治の職業の本を読み終えたので、新しく若者向きの文庫、一瞬の風になれ(佐藤多佳子)を読み始める。倉岡さんは私よりもお腹の調子が悪くモニカさんから抗生物質の薬を貰っていた。昨日の夕食はモモ(餃子の一種)、これが原因かも知れない。
4/5
七時の朝食はあまり食がすすまない。八時に出発。パンボチェまで上りが続く。タンボチェの寺院が丘の上に見え更にその上の丘にはドイツ系のホテル、滞在型の立派なロッジが見える。タンボチェからデボチェへ。川を渡ってパンボチェから合流する道が一望できる。アマダブラムベースキャンプへの道も白い稜線へと上がっていっている。雲ひとつない青い空がまぶしい。ゆっくり登っていくので息が乱れることはないが、先に出発したにもかかわらずガイドのエイドリアンの一行が追い越していく。遅く出発したはずのラッセル氏がモニカさんと連れ立って追い越して行く。私たちは高度順応のためにゆっくり歩く。
パンボチェでお茶の時間。一行の大部分は隣の寺院に見学に行く。ラッセル氏が百ルピーくらいのお布施を出したほうが良いと助言している。一昨年、Y隊の隊員、Mさんが一行を代表して下から登ってきて、この寺院で登頂成功を祈ったが、他の二人の隊員にだけ効用があったらしい。Mさんはサウスコルから少し上でリタイアしたのだった。だからというわけでもないが、私は寺院に入らなかった。
ここのロッジは今までで一番古く、床にものを置くのも躊躇する。トイレも床に二箇所穴が切ってあって傍らの壁に木屑や枯葉が積んである。今までのトイレは疑似水洗式であったが、ディンボチェまで来ると、もう水洗ではない。
シャモレの入口のロッジで昼食である。麺のスープとフライドポテトなど。油で揚げたものが主だったので、倉岡さんは昼食をパスしていた。お腹に力が入らないであろうがディンボチェまで無事にガイドしてくれた。ディンボチェのソナムロッジは居間に夕日が差し込み窓際に座るとポカポカと暖かい。隣に座ったフランス人夫妻とドイツ人との会話は英語でも初級英会話で私にも理解できる。隊の共通語は英語であるが、ニュージーランドやオーストラリアからのガイドや隊員の英語は難しい。香港からきたハイさんはテレビ局のプロデューサであるがインタビューが上手で私にも分かる英語で話す。私の日記までビデオ撮影し、ドキュメンタリーの製作者であると自己紹介していた。
4/6
五時半起床、七時半朝食。八時に倉岡さんガイドで中国人の隊員らが5000mまで丘を上りエベレストを見てきた。一日中陽だまりで「一瞬の風になれ」を読んだ。鼻水が大分止まったはずだった。
4/7
が、朝から鼻水が出る。トイレットペーパーをロッジで二個目を買う。7時半朝食。八時出発。ディンボチェから今までに数年もかかって何回も上った丘を通って緩やかな台地を歩き少し下がってから長い上りに入る。丘の上は墓地になっていてエベレストの遭難者の墓石が並んでいる。新しいものもあった。一番先に出発したはずが、ビデオ撮影に夢中になってだいぶ追い越されてしまったがトゥクラ経由でロブチェピークの麓に着く(標高4700m)。まだ残雪のあるテント場にダイニングの二張りのテント、キッチンの一張りのテント、食料などのストッカーテント、大便用トイレテントが並ぶ。いずれのテントも手洗い場があり手洗い励行されている。隊員用のテントは一人テントでゆったり寛げるようになっている。外の風は冷たいがテントの中は暖かい。5、6分ごとにまどろんでしまう。ヨーロッパ人は体格が良く脚が長いのでアッという間に追い越していく。食事も皿に山のように盛ってたいらげてしまう。
夕食前には鼻水が出っぱなしで倉岡さんに借りたダウン、私のダウンと雨具を重ね、エイドリアンが貸してくれた五百リットルの湯を入れたボトルを腹部に抱えて人心地ついた。発熱。シュラフの中に一リットルのナルゲンの湯たんぽを入れて寝た。夜中に三回も起きて星空を眺めた。
4/8
六時半におしぼりとミルクティをキッチンボーイが各テントに配る。他の隊では洗面器にお湯を入れて配るが、この隊では熱湯に浸したおしぼりタオルを使う。おしぼりの洗濯のほうが手間要らずなのであろう。荷物の点検をする。新しい靴下がまだ11枚もあった。当分は毎日取り替えても大丈夫である。
日差しが強くテントの中は暑すぎる位である。倉岡さんは頭を洗っていたが私はまだ風邪が治っていないのでダイニングテントで本を読みながら涼む。オマーンからきたナビさんと話す。日本に来たことがあり東京・横浜・厚木に行き、富士山にも登ったがガスっていて何も見えなかったそうだ。
あいかわらず、ドイツ人、オランダ人、フランス人は日光浴をしている。暑くないのだろうか。私は日なたにいるとシェルパらに負けず劣らず真っ黒に日焼けしてしまうが、西欧人は違うらしい。メラニン色素が少ないようだ。
夕食にヤクの肉が出た。食欲がなくなりライスと野菜、パスタとじゃがいもですます人がでてきた。
三回夜中に起きて北斗七星を見上げた。月は下弦である。
4/9
六時半に目覚める。隣のテントでは鼻をかんでいるのか、グオーングオーンズウォーンと日本人と違い動物的な音が聞こえる。いよいよBCに向かう日である。八時過ぎに出てロブチェ、ゴラクシェプを経由してエベレストベースキャンプより少し下のテント場に着く(5215m)。なつかしい雪崩の音が聞こえる。隊員は気持ちが高揚しているのか到着を称え合っている。各人のテントにはマットレス二枚と真っ白いカバーで覆われた大きな枕がついている。トイレは小はシャワー室の前の石囲い。大はシャワー室の隣の部屋。洋式であるが座部が私の短い脚がブラブラするほど高いところにある。トイレットペーパーは豊富にある。
ホワイトポッドの白いテントは六、七十人は入る快適な居住空間をもち、バー、テレビ、書棚、メール送信用パソコンなどが壁に沿って備えてある。透明な窓からはクーンブ氷河や、タウツェが一望できる。
ラッセル氏がガイドしてテント群、シャワー・トイレテント、医療テント、コンピューターテント、食料テント、キッチンテント、シェルパテントを全員で見てまわる。二時から23時まで働いている人たちがいる。ダイニングテントが三張り、真ん中のテントはお客さん用である。ごみは乾燥させ、大便もキッチンごみもすべてナムチェに下ろして仕分けするそうだ。中国人と日本人の別メニューも希望すれば料理してくれるという。
4/10
六時起床。日に日にお絞りが薄汚くなってきた。漂白しているらしいが、それでも限度がある。九時からモニカ医師の健康チェックがある。血圧と血中酸素濃度と問診である。いずれも問題なしの健康体であった。ホワイトポッドは暖かく六個のスピーカーから流れる若向きの音楽は広い空間を走り高低の音が心地よい。標高が高くなると気持ちが高揚すると言うが、「一陣の風になれ」の三巻目を読みながら終局に近い物語の感動と一緒になって、何か作りたくなり新しいビデオ作品の構想を頭に浮かべた。失敗よりは成功のほうが感動を与える。しかし、今回はもう最後にしてほしいという周囲の期待に応えるため本格的なビデオ制作は考えていない。午後も本を読み続けて夕方には読み終えた。ポッドの窓からは雪崩の雪煙が見えて、みんなはアバランチアバランチと興奮していた。中国人のカメラマンが全員の写真を撮ることになり、ポッドの前に集合し、大騒ぎしながら何回もリハーサルをして漸くオーケイがでた後であったから、興奮も尋常ではなかった。
自分のテントに戻り居住域を快適にするため、バッグ二個から出した荷物をあちこち移動させた。たくさんあるわけではなく、右に左に移し変えるだけだが、寒いのと標高が高いのとが思考力をゼロにまで下げてしまい、緩慢な動作しか出来なかった。
夕食は本格的なディナーだった。野菜スープの後に各人の鉄板にジュージューと音をたてて運ばれてきたチキンステーキはよく焼けており、つけ合わせのライスと野菜と芋も温かく、冷え切った体を暖めてくれた。三つある食堂テントのうちポッドに一番近いテントにはベースキャンプまでのトレッカーのフランス人夫妻が二組、エドさんと呼ばれる日本語のカタコトができるアメリカ人、登頂したら国では初めてになるという陽気なルーマニア人、倉岡さん、ガイドのジョニイさん、ラッセル氏、モニカ医師が集まるようになった。
夜中にシェルパたちがキャンプ2まで荷揚げを数往復おこなった話、1996年前後ノースコルで多くのテントが突風で飛ばされた話、毎年のように起きる雪崩によるシェルパの犠牲を少なくするため全員にビーコンを持たせるようになったという話など、話題はつきない。
倉岡さんが開けた赤ワインにルーマニア人とラッセル氏が雄弁になる。ルーマニア人は岩石が専門の教授である。オーストラリアに住むニュージーランド人夫妻のトレッカーは、太っているが小さい可愛い顔の奥さんのほうがお話好きで、ラッセル氏に上手に質問するので、チョコレートケーキのデザートを食べている間も話は盛り上がる。ポッドでは映画会が始まっていたが、ラッセル氏が話しを切り上げるまで誰も席を立とうとしなかった。
八時過ぎシュラフにもぐりこむ。一リットルのナルゲンを二本湯たんぽにしたが、寒いのでダウンのズボンに履き替え靴下は脱いだ。テント入口の空間にシートを広げトイレ器具を置き寒い夜間に利用することにした。インターネットで買ったアメリカ製の器具は逆流防止の弁がついているが、二回しか利用できない。三回目には満タンになりあふれ出てしまう。
4/11
昨日カラパタールに登ったトレッカー達が今日はベースキャンプを去る。一期一会、いろんな出会いを胸に肩をたたきあった。
最初はダイニングテント一つの半分の大きさのテントで始めたというハイメックスも年々規模が大きくなり、今春はガイドが5名、ニュージーランド人でフランス在住のラッセル氏、スペイン人で英国在住のモニカ医師、15回登頂のプルバ・タシ・シェルパを代表とするシェルパが24名、キッチンスタッフは8名、隊員は18名、オマーン、ルーマニア、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、ドイツ、オランダ、イギリス、そして中国人が7名、日本人は私一人である。
午前中テントの上にシュラフを広げ日光浴させるとフカフカに膨らむ。湯たんぽに使った水をビニル袋に空けて帽子と手袋の小物を振り洗いした。次回(無いほうがよいが)は小さな風呂桶を持参すると良いかも知れない。ビニル袋の振り洗いは水の使用量が少ないという利点がある。陰干しでも夕方には乾いていた。
ポッドに入ると時間を忘れる。書棚には英語のベストセラーだった本が並んでいる。外に設置されたモーターの音が喧しいが、冷たい風が吹く外気とちがい適温に保たれているので、窓際の日向に座るとダウンも不要である。
昼食は大きなピザが一枚ずつとマヨネーズで和えた野菜サラダがでた。夕食はスパゲッティミートソース、野菜、ソーセージとトマトの炒め物、ゼリー。毎食がご馳走である。
明日はカラパタールトレッキングである。私はスティとなったので、夜の映画会にでてみた。ランボウIである。主役が4人のドタバタ喜劇映画である。英語圏の人たちは大きな声で笑うが、ほかの人たちは画面でそれと分かるところだけで笑う。ポッド内には大きいガスヒーターがあり、満員の会場は汗ばむほどだった。
エイコエイコと、ドイツ人もルーマニア人もオマーン人もヘッドライトで岩石を積んだ凸凹道を照らして暗闇をテントまで案内してくれた。レディファーストも徹底していて皆さん、周りへの気遣いは日本男性とは比べものにならない。日本では、特に東京では、周りをみておらず、路上でも車中でも携帯に夢中の人が多い。
4/12
ベースキャンプの空気量にも慣れてきて石ころの歩道も普通に歩けるようになってきたが、少し速度を上げると、まだ息切れがする。
リビングテントの前でルーマニア人のドリさんが皆の名前を覚えようと一生懸命である。大学でもそうして学生達の名前を覚えるのだろう。私は覚えてもすぐに忘れてしまう。それでも中国人は覚えやすい。ハイさん、ワンさん、可愛い顔のロンさんなど、中国人グループはお揃いのダウンの胸元に探路省の文字の入ったものを着ている。探路省は中国の官公省で今回はスポンサーになっているという。グループの女性はジンジャーさんとファンさん。二人とも30代で可愛く色白である。チョウオユーに登ったワンさんは登山家の体格である。遺伝子工学の教授は喘息のような咳をする。
朝食はトーストと卵、そして朝からバウンドケーキである。
9時集合。ガイドのジョニイさんが先頭で一列になってカラパタールへ出発した。最後がアメリカ人のジョー、マイペースである。65歳で私の次の高齢者である。ハイビジョンビデオカメラで全員を撮影した。画面が明るすぎて見えにくく、いい加減な構図になっているかも知れない。皆さん愛想よく挨拶してくれるので良い物語が出来そうである。
ラッセル氏にインタビューをした。創業して何年になるか?今年のメンバーは?今年も成功しますか?など、ビデオカメラに収録した。今年の隊員の平均年齢は若いので、エイコは省エネで高度順化するのがベストであると、強調していた。今日も皆さんとは別メニューである。いろいろ配慮してくれるので有難い。午後にラッセル氏がポッドでインターネットの画面を出してくれた。友人と娘からメールが届いていたが、娘は英語だったので読めたが、友人のものは文字化けして読めなかった。
夜、ハイさんが中心になって映画会を開催した。シシャパンマに登り雪崩で仲間5人を亡くしたあと、昨年の9月エベレストに11人登りそのうち9人が登頂した記録映画であった。オーバーラップとインタビューを多用し、風の音を現地収録のまま使って臨場感を出し秀作である。テレビ局のホームページにも掲載されているという作品であった。今回参加したハイさん、ワンさん、ロンさん、ジンジャーさんも登場していた。ジンジャーさんがシェルパと手をつないでヨロヨロと前進ベースキャンプに下ってくるシーンのカメラワークはうまい。氷壁を蹴って下るシーンなどは素人っぽくてカメラマンとの対話が見えほほ笑ましかった。
4/13
朝目覚めて尿採取器では三回目は無理だと思い、もう明るくなっているのでトイレまで出かけようと一大決心をして、テントのジッパーを開けたら外は一面銀世界だった。雪が積もっていた。登山靴でも埋まってしまうほどの積雪量である。諦めて40リットルのゴミ袋を奥から引き出してきて採尿をした。朝の光をビデオカメラで撮影するが寒くて手指がちぎれそうである。
キッチンテントに行ってタシに洗濯をお願いした。ジャケットとウールの下着と帽子の三点である。そのとき丁度シェルパたちが戻ってきた。上のキャンプへのロープの設置だったのか空に近いザックを背負って、みな身体が細くて小さい。そのうちの一人が「おはようございます」と丁寧な日本語で声をかけてきた。夜中に出発した12人のシェルパらはキャンプ2まで三時間+一時間半で往復したそうだ。ふつう、一日がかりの行程である。今回は一人がハシゴを踏み外し跨って急所を打ってしまったという。レスキューはスムーズにいったそうだ。雪崩でなくて良かった。毎年、ロープの設置のときに雪崩に遭って犠牲者が出る。キャンプ1までのクーンブ氷河はルーレットと呼ばれている。毎日地形が変わり雪崩が起きやすい。いつ雪崩が起きるかは予測ができないので素早く行動し、運を天にまかせなければならない。
雪景色もあって、レストの今日はテント場がにぎやかである。ガイドたちは明日のハシゴのトレーニングのためコース取りとロープの設置にベースキャンプを越えて登り口にでかけた。
まいりました。歯痛が始まった。今朝はシリアルに入っていたクルミも噛まずに飲み込まなければならなかった。日本を出て17日目、知らない間に体調が低下しているようだ。液体ガムで口を漱ぐ。東京の歯医者さんに処方して貰った薬を服用する。
昼食時、フランス人のアンドレさんがいかめしい顔でシャモニから出るイクスプレスバンの話を始めた。質問するニュージーランド人のガイド、ジョニイさんの発音がアンドレさんには聞き取れないといって何回も聞き返していた。お互いの発音は違うようだ。アメリカ人のガイド、エイドリアンさんは日本人が僕の名前の「り」をアールではなくエルで呼ぶんだ、といっていたが、外国語の発音は難しい。
ラッセル氏がアマダブラムに三時間半で登ったとさらっと言う。チョーユーでは頂上からキャンプ1までスキーで10分かかった、若かったからできたと言う。こういう話ならば聞き取れる。シャモニの隣人とロンドンで落ち合って、このあとにデナリに登るという。クライマーが仕事という氏は厚い胸板をしている。
ドウモドウモと倉岡さんがシェルパたちと会話する。ラッセル氏によれば2004年にハイさんよりも若い日本人客がいつもお笑い芸人の真似をして、股を広げて腕を八の字に上下させて、シェルパたちに、ドウモドウモとやってみせたそうだ。「彼は最近結婚してベイビイも出来たという話だ。」誰かが「彼はハイメックスの常連客ですか」と聞いた。「いや、一回きりだけど、シェルパたちは日本人を見ると彼を思い出すらしい」とラッセル氏は笑っていた。
一番若いオーストラリア人のシャリイさんがシャワーを浴びた後、脚を半分出して食事を始めると、ルーマニア人の教授ドリンさんが「女性が肌を見せると、服を脱いだところまで、男はドリームしてしまう」とニコニコしていた。
夕食時、雷と雪である。中国人グループがラッセル氏にいろいろ質問をしていた。ラッセル氏はシャモニに住んでいて食事を作るのは奥さんよりも上手で魚一匹を料理して野菜サラダも付ける。遠征費用は登山者には大金であるが、フランスの国にタックスを20%支払い会社と従業員に支払うと手元に残るのは僅かであるという。ニュージーランドとオーストラリアに行くには十数時間もかかる。アメリカ、イギリスの自動車の免許証を持ちパスポートは10年更新のアメリカのものを持っている国際人である。一回に15人ぐらいで一緒に食事をするが話題が豊富でみんなをひきつける力がある。聞き手もこれだけの人数が集まると色々な考え方をする人がいて面白い。
チョウオユーに登ったことがあるワンさんは中国の何とかという山を田部井淳子さんと登ったことがある、と夕食のときナプキンに名前をペン書きしてくれた。中国深圳市の王石さん、有名人らしい。話をしたことがあるか、と聞かれたが、山の世界は広く生憎まだ一度もお会いしたことがない。
佐々木譲の「警察庁から来た男」を読み終えた。札幌大通警察署の不祥事のフィクションである。高校生のころは美術部に所属していて西高から大通りを通って展覧会場まで毎年絵をリヤカーで運んだが、署の前を通過するころには疲れきっていたことを思い出す。著者は昨年、直木賞を受賞したが、話の展開がうまい。夢中になって読んでしまった。
試行錯誤中であるが、寝るときにダウンの上下と、靴下を脱いでシュラフにもぐるが、これで朝まで充分暖かい。肩がシュラフからはみ出さないように気をつければ問題ない。一時と四時に目を覚ましただけである。
4/14
久しぶりのトレーニングである。ハーネスを身につけてスリングは使わずに倉岡さんお手製のものをユマールと一緒に取り付ける。九時、外は思ったよりも寒くなく、頭は汗をかいている。上着をぬいで、中間着のみで、倉岡さんの後ろをハーハー言いながらついて行った。久しぶりの遠出である。ベースキャンプの奥の末端でアイゼンをつけて、ザックは置いて、前日ガイドらが設置したロープに沿ってユマールを使い梯子を上下して懸垂下降などを行い一時間。一番初めに出発したので一番に往復して誰よりも先に早く戻ることができた。二番手の中国人グループが一時半集合で出て行ったが、トレーニングしない連中が残っていて特有の大声で話をしているので静かな午後というわけにはいかない。
久しぶりの運動でシャワーをする気持ちになる。全身に石鹸を塗ってさっぱりさせた。トレーニングも結構良い高所順応になるようだ。ポンプ式のシャワーのお湯をたっぷり使った。
Y隊のときはナムチェあたりから高山病の兆候が出てベースキャンプに入っても三浦隊のテントを訪問するときも頭痛がしていたが、今回はナムチェから五日目、普通に歩けるし頭痛もない。ただし倉岡さんが早めに歩くと、追いつくのにたいへんである。ゆっくり歩いてもらうために、ドウモドウモの話を倉岡さんに確かめる。群馬県の山持ちのぼんぼんで、キリマンジャロ以外はサミッターになったが、結婚してからは、1時間おきに職場から自宅に戻って赤ちゃんに夢中で、もう山には興味がないらしい、ということだった。
夕食はリボンに結んだパスタとソーセージとじゃがいもとチーズと野菜。デザートは丸ごと缶詰にした梨である。今夜も映画会を楽しみにしている人が多いようだが、隣に座ったフランス人のアンドレさんが自分は見ないというので、つい、ミートゥと答えてしまい自主性なくテントに行く。風もなく雪もだいぶ溶けた。歯痛の薬は二日分服用し、ほぼ良くなったようだ。歯茎が痛いと食べ物を丸呑みしなければならないので大変である。
4/15
夜中に三回も起きて明るくなってから六時にトイレまで行った。寒いが背に腹は変えられない。テントの外はまだ雪が残り氷も張っている。スタスタと石の上を歩けたので、順応は出来たようだ。今日も晴れ。ヌプツェの頂に太陽が輝き風が吹いて雲がたなびく。
12時からプジャである。シェルパ二人が読経しシェルパたちが唱和し、米を撒き粉を撒き、そしてシェルパたちの踊りと歌が二時すぎまで続いた。
中国人のジンジャーさんはシェルパたちの間でも人気者だ。彼女は明るいし指名されても可愛く踊りながら歌を歌う。中国では二百社からの支店をもつ大手の山道具の店の主人であるという。トレードマークの麦藁帽の倉岡さんもドウモドウモと人気者である。ハルバルハコダテーと突然歌い出したのには驚いた。あわててビデオカメラを取りにテントに走った。
昨日着いたばかりの女性ビリーさんが握手を求めてきた。ハイメックスの広報担当で、昨年はモニカ医師と登頂している。モニカさんより10歳くらい年上で細身で背が高いドイツ人である。
シェルパは20人弱。キャンプ2まで既に荷揚げのため数回往復している。細い体で青いフリースと黒のチョッキ、ハイメックスのマークの入ったズボンを穿いて帽子もお揃いだから未だ一人一人を見分けることができない。アンテナとマイクと通信機本体が隊員全員に配られた。メードインジャパンである。リチウム電池の単3が六本であるから重量はある。
夜八時からの映画会でハイメックスの昨年のビデオが一時間上映された。さすがプロの作品である。頻発する雪崩、南峯の急登、下山時の隊員の高度障害等、エベレストに登ることは大変なことである、と思わせるシーンが連続してでてくる。モニカさん、ビリーさん、倉岡さん、エイドリアンさんと知っている顔が出てくる。ラッセル氏がベースキャンプで登頂する隊員たちと交信する場面が頻繁に出てくる。緊急を告げる顔のアップ、それに加えてBGMが大音響である。これに比べると私のエベレスト作品は穏やかな画面ばかりである。エベレストに登ることは易しいとまでは言わなくとも出演者は皆のんびりとした顔つきである。
4/16
今日は結婚記念日である。何年間も思い出したことがなかった。1965年結婚してから45年、ということは子供らも40代の大台に乗ってしまったということになる。日々、時間に追われ時を刻み長い年月が経ってしまった。ハイメックスの隊員で一番若い女性が30歳のオーストラリア人シャリーさん、私を除き一番年長が65歳のアメリカ人ジョーさん。シャリーさんは小顔で楽しそうに話すので皆の人気者である。ニュージーランド人のスチュワートさんは自称独身の35歳の歯医者さんの卵。ポッドで教科書を広げてシャリーさんに講義する。お似合いだと皆がからかったらまだまだ数年は勉強しなければならないからと真顔になった。
八時半、一昨日と同じ装具でヘルメットだけは着けずにベースキャンプの氷河末端まで行くトレーニングに出発する。倉岡さんと、皆よりも一足さきに出たのだが追い抜かれてしまう。ハイメックスのベースキャンプからメインのベースキャンプまでは結構距離がある。帰り道エイドリアンさんが「僕はここまで一時間かかるところを40分できた」と顔を紅潮させながら自慢げであった。ハイメックスのロープなどを保管する大きな長方形のテントの近くでクランポンを付けて氷壁を登っていく。一本ロープをかけた壁をシェルパたちがジャンプしているように下ってくる。二、三人でロープを掴むと二段とびで着地を繰り返しながら勢いよく下ってくる。すごい。私たちは氷河全体が見渡せる地点まで登って引き返した。
ベースキャンプの奥まったところで写真展を催しているテントに立ち寄った。1927年と2010年のクーンブ氷河の変化を引き伸ばしたパネルが何枚も展示されていた。雪の多い少ないの違いを考慮しても地球温暖化の影響が顕著である。写真家はブリーシャーズである。1927年の写真はマロリーによる。デジタルカメラで撮影して何枚もつなぎ合わせた写真であるが現在のものと遜色ない。
ラッセル氏が登頂時の食事の見本を食堂テントの前に広げた。濃い味、辛い味の調理済みのインスタント食品である。朝食二種、ランチと夕食六種、一通り味見してみた。ソーセージは柔らかすぎであるが味は良い。日本の白飯やインスタントラーメンよりもカロリーもビタミン類も備わっている。2001年アコンカグアに登った一回目、ドイツ製のインスタント食品が出たが、あのときよりも何倍も美味しい。豆やソーセージが形のままで、袋を暖めるだけで良い。日進月歩を痛感する。
ロブチェイーストに登る日が決まった。明日はレスト。明後日から頂上の二泊と下での一泊、四日間である。今日は午後から雪がちらつき始め寒い。ポッドで「体がらくになる本」斉藤茂太・斉藤由香著(新潮文庫)を読む。会社勤めのお嬢さんたちへの助言が主である。
夕食時、昼間倉岡さんと見に行った写真展の主催者がパンフレットを持って若い女性とテントに入ってきた。80年代からのラッセル氏の友人でクライマーでありカメラマンである。中国人グループの教授が咳き込みながら環境の話をして我々と一緒に研究しませんか、と意気投合していた。
陽気なルーマニア人のドリンさんが元気がない。モニカ医師から薬を貰っていた。
4/17
ブリーシャーズ氏は6時には撮影に出かけた。中国人グループのハイさんらは早起きして出かけたようである。彼らは集まると大声で喧嘩しているように騒ぐので直ぐ分かる。今日も晴れ、午後になるとガスがかかり、小雪がちらつく毎日である。
午後にポッドでビリーさんを先生に、BGMをかけてモニカさんと一緒にエクササイズをした。山では使わない筋肉をほぐした。二人ともうらやましいくらいに手足が長く腹筋も強い。倉岡さんに言わせると高山では筋肉は不要である。持久力が一番必要である。昨年の隊員の中に筋肉もりもりの筋肉マンがいたが八千でダウンしてしまったそうだ。筋肉も酸素を消費するから酸素不足に陥りやすい。
グループIのヨーロッパ人たちが昼ごろロブチェに出発した。二回頂上を往復する。グループⅡの中国人らは明日出発で26日に戻る。エイコ/ヒロは明日出発してBCでレストしノライブキャンプに一泊、頂上で二泊し24日に戻る。グループIはエイコ/ヒロよりも一日多い。
ガイドのジョニイさんがヒロはどうして強いのか、ヴェリイ・ストロングと誉めていた。倉岡さんはガイドのエイドリアンさんと三時にキャンプ1へ出発し、シェルパたちが設置したロープの点検などを終え十時にはベースキャンプに戻っていた。百人くらいのシェルパたちが上り下りして仕事をしていたという。
夕食は豪華だった。スープのあとに一皿ずつ次から次へとキッチンボーイたちがステーキを食堂テントに運んできた。柔らかいヤクステーキとジャガイモと青菜とライスがジュウジュウと音をたてていた。皆おいしそうに平らげていた。デザートはパイナップルが三枚もついていた。三日前からハイさんが中国茶をご馳走してくれる。良い消化剤になっているようだ。
夜の映画は南アの首相とラグビー選手団との交流の話だった。カトマンズで買ったDVDであるがダビングがうまくいっていないのか最後のほうは尻切れトンボで終わってしまった。
4/18
朝、テントの周囲が静かである。今日は残りの全員がロブチェに下る。今日も晴れである。シュラフやマット、着替えなど軽いが嵩張る物をヤクやポーターらが運んでいった。昼食後に出発し一時間でロブチェに着いた。上り下りはあるがエベレストベースキャンプよりも標高が低く4700mまで下ると幾分呼吸が楽になった感じである。山から吹き下りてくる風は冷たい。途中でトッドさんに出会う。有名なガイドさんだそうだ。日焼けして強そうだった。ベースキャンプでポーターが意識不明になり下まで降ろして戻る途中だという。倉岡さんに「ずいぶんと英語がうまくなったね」とほめていた。山腹と同様に岩と石と砂しかない道を歩きながら、エベレスト界隈はいつまでも開発されないでハイウェイも通さない時代が続けば良い、と思った。途中にあるロブチェの山小屋は数が増えて、石を砕き積み上げて建築中のものもある。
ロブチェのベースキャンプに着いてテントを決める。食堂テントの前にお揃いの緑色のダウンを着たシェルパの若者が五人並んで立っていた。一人にバッグをテントまで運んでもらった。名前はカミツェリン、整った顔立ちの好青年である。先着のお嬢さんたちが、日本語で言えばステキーといっているのか、はしゃいでいた。
食堂テントでは中国人グループのハイさんたちがプジャのシーンのビデオを観たり、男女二人で仲良くイヤホンを片方ずつ使ってDVD作品を観ていた。王石さんは哲学的激情という本を読んでいた。
ロブチェのベースキャンプに着いて食堂テントに休んでまもなく中国人教授のような咳が出て咳き込んでしまった。数十回の立て続けの咳で肺の奥に何かが詰まったようで苦しかった。オマーンのナビさんが気遣ってタトパニをコップに入れて持ってきてくれた。オマーンは英語圏なのか、電話も会話も読書も英語が達者である。咳き込み過ぎたのであろう、就寝時、左の一番下の肋骨が痛くて右側を下に寝た。夜中に二回、外出したが、空の星が私の思っていた方向とは違っていて反対側の山際に北斗七星が並んでいた。
4/19
六時に目覚めた。緊急に外出すべきである。女性用の小用トイレは山腹に石囲いしてあるので、そこまで登っていかなければならない。大用テントはテント群の端にあるので今度は大急ぎで走る必要がある。大用トイレテントには壁に鏡があり、手洗い場ではお湯が使えた。冷え切った早朝にお湯を使えたことには感激した。エベレストベースキャンプのテントでマットの上に白いカバーで覆われた枕が備えられていたのにも感激したが、日本の公募隊と遜色ない費用を支払ってその待遇は雲泥の差がある。小規模隊のガイドは小さなことにまで目が届く利点があるというが、私は日本の公募隊と同じ費用で、今回は日本でも指折りの優秀なガイドを独占している。
今日は中国人グループがノライベキャンプまで上がる。四人に一人のガイドがつく。モニカ医師も昨年登頂しただけあってガイドと遜色なく、ガイドかと思うほどスマートに歩く。テントに陽があたるのはエベレストベースキャンプよりも早く7時20分ごろにはテントの上に積もっていた雪も融けてしまった。中国人らとシェリーさんとナビさん、ヒロさん、モニカさん、エイドリアンさんらと朝食をとる。いつものように食パンと目玉焼きである。
上のキャンプ用に下敷き二枚、お湯を沸かすための一リットルの容器二個、食べ物を入れるプラスチックのボール二個、ガスコンロ一式が袋に入って各人に渡される。食料テントには缶詰や袋物や卵が蓄えられていて、好きなものを持ち出せる。
昼食時に一人の黒人が食堂テントに入ってきた。タンザニア出身だという。ヒマラヤで黒人は非常に珍しい。男女二人のヨーロッパ人と一緒だった。シャリーさんが「タンザニアにはキリマンジャロがありますね」と話しかけると「どのコースを登りましたか」と流暢な英語である。今日はこれからエベレストベースキャンプに向かうという。
シャリーさんとナビさんと中国人らがエイドリアンさんをガイドに出発した。ハイさんが雪道を先に行ってビデオ撮影していた。彼らは二回頂上へ行く。
食堂テントの前に椅子を持ち出して吉村昭の「ひとり旅」文春文庫を読む。取材旅行の随筆である。
15時に「ヘーイ、ヒロ」と言いながら下ってきたのはガイドのジョニイさんであった。グループIが頂上から戻ってきてテントの周りが一挙に賑やかになった。夕食はリボンのパスタとトウモロコシと緑色の野菜である。倉岡さんが「今日は下から野菜を売りにきた」と教えてくれる。野菜は私の知らないものであった。誰かが「もう珍しいものはなくなったのかな」と愚痴っていた。どれがあたったのか食後一時間でトイレに駆け込む。夜中には二回、トイレはテント群の向こう端にあるので、大至急で走っていく。
4/20
モニカさんから薬を貰う。先日の例のトイレ掃除の洗剤と名前が似ている薬であった。朝食時に二錠服用する。九時半までに上に上げる荷物を整理する。シュラフ、マット、食器、食料など。ハーネス等のクライミングギアはベースキャンプから装着して行く。行動食としてチョコバー二本と好物の三角チーズを四個、食料庫から手に入れた。
倉岡さんは私のガイド兼ポーター、至れり尽くせりで頭が下がる思いである。お昼前に出発して中間キャンプに二時に着く。岩の多い道を登り一箇所だけ急な壁を乗り越えるためカラビナを使ってビレーした。この壁は2009年の正月に登ったときのことを思い出させた。一月のロブチェイーストは寒かった。そのときビデオ作品を一本制作できたが、Sガイドが怪我から復帰して最初の大きな山行であった。ボルダリングに都合の良い岩が近くにあったので、そこにシェルパと登るシーンから始まる作品である。Sガイドは先の壁にシェルパが設置したロープの掛け方が素人であるといって丁寧にやり直しをさせていた。この壁だけは覚えていたが、そこまでの大小の岩を越えていく道は全く覚えていなかった。
中国人グループの紅二点ファンさんジンジャーさんを先頭に、最後はガイドのエイドリアンさんがテントを二個も背負って、その後ろをナビさんが疲れた様子で下っていった。ハイさんたちのビデオカメラを担いだシェルパ達がヒョイヒョイと岩に飛び移りながら仲良く下っていった。
倉岡さんは二人分の荷物とギヤと食料をSUMO70のザックに入れ、周りにマットやクランポンやピッケルをぶら下げている。通り過ぎるときファンさんとジンジャーさんが「キャッキャッ、ヒロさんがポーターしているよ」と若い女性らしく賑やかな笑い声をたてていた。
私は飲料水と行動食と防寒着二枚、雨具、ビデオカメラなどをザックに入れ、ハーネス、ギヤ類は腰にぶら下げているだけだ。中間キャンプにはテントが三張り残っていて、ガスコンロ、お湯を沸かす食器類一式、シュラフとマット二個ずつ残してあった。20リットルタンクに水が満タンである。道の反対側に登ってみると、風の通る場所にテントが四張りあった。他にも登山者がいるようだ。谷間から水が流れる音が上がってきていた。
4/21
中間キャンプからはスラブ状の大きな岩の連続である。頂上までロープが張ってある。あと二時間という地点から雪と氷、その下には水が流れていた。このあたりで下から登ってきたグループIに追い抜かれた。スピードアップしようにも脚がトント動かない。皆さんよりは三時間も余分にかかっている。オウ、テリブル、どうしたのかエイコさん。テントを張って下っていったシェルパらは良く日本語を知っている。「今日は」「有難うございます」「ゆっくりとね」と労いの言葉をかけてくれた。ビスタリビスタリ後ろから撮影したり遊びながらついてきてくれる倉岡さんは辛抱強い。
頂上には六張りテントが雪の上に張ってあった。グループIの一番早い人は中間キャンプから四時間半だった。下から上がってきた他の登山隊5人ばかりが尾根に並んで座って私たちのテントを珍しそうに見下ろしていた。隣のガブリエルさんのテントから明るい音楽が聞こえる。ベースキャンプで太陽電池で充電したアイポッドを皆さんに聞こえるようにならしている。私は倉岡さんと同じテントだ。裏口を開けると隣のテントから顔を出したヘルムートさんとアンドレさんが陽気に挨拶してくれた。
スープとベジタブルチキンを頂いて、備え付けの厳冬期用のシュラフに潜り込む。夜中に二回外出した。ときどき風が吹いてテントを揺らしていた。

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